母の親せきや友人、近所の方など思ってもみなかったほどのたくさんの人が来てくれ、悲しみを共にしてくれました

40歳を超えたころから、親せきや知人の親などの葬儀に行くことが多くなりました。その中で一番心に残った葬儀は、4年前に亡くなった母親の時です。それはやはり一番亡くなって欲しくなかった母なので、悲しい以外の何もありませんでした。

いつもは一人の参列者として座り、焼香をさせてもらって帰るだけの立場だったのが、このときは参列者を迎える側となりました。80歳を間近に迎える予定だった母は、それまで慢性の気管支炎を患っていて2回ほど肺炎になって入院をしましたが、1週間ほどで退院できまた自宅で生活ができていました。酸素量が足りなかったので酸素ボンベは手放せませんでしたが、家事は一緒に住んでいた父に協力してもらいながら自分のことはすべて自分でこなし、私は時々会いに行く程度でした。

ところが急に気管支炎が悪化して、再度入院となったのです。また退院できると信じて疑わなかったのに、さらに悪くなり肺炎となって、意識不明になり、そのままその日のうちに亡くなってしまったのです。

急に亡くなるなんて思ってもみなくて、悲しくて悲しくてやりきれなかったのですが、事前に互助会で掛け金をしていた葬儀社に連絡をしてきてもらいました。亡くなった翌日は友引だったので、翌々日の通夜とその翌日の告別式に決まり、どの様な会場の設定や式の内容などを話し合いましたが、私たち娘も父もあまりよくわからずほとんど言ってもらう通りに決めました。

しかし祭壇の花だけはちょっと豪華にして、好きだった蘭の花も入れてもらうようにお願いしました。いくつかのパターンの写真を見て、女性らしく可愛いリボンの形の祭壇にしてもらうことだけ自分たちで決めました。その分費用がとても高くなってしまったのですが、参列者の方々からも「立派な祭壇」「○○ちゃん(母の呼び名)も喜んでるわ」と言ってもらえて、私たちも満足でした。

実際、通夜や告別式には、母の親せきや友人、近所の方など思ってもみなかったほどのたくさんの人が来てくれ、悲しみを共にしてくれました。まだ79歳とほかの友人よりも若かったことと、母の生まれた地元で住んでいたからでしょう。

そんなにたくさんの人たちに囲まれて盛大な告別式が終わりに近づき、最後のお別れの時が来ました。みんなで棺に花を入れ、霊柩車に母の棺を乗せて火葬場に向けて出発した時、「プー」という長いクラクション合図の後、白いハトが10羽ほど空を飛んだのです。それはそこの式場でいつも行われることのようですが、この鳩ときれいな祭壇と大勢の人が来てくれたということで、私の心に残る葬儀でした。